死ぬことについて考えている

友人達がそれに向かっている。

 

業界の彼は俺が転職を考えていた時に熱心に来ないかと誘ってくれた人物だった。

得意先の人づてにその事を知ったのは一昨年の事だ。

胃癌を発症し、転移が進み今は車椅子生活となり、席を置いていた会社も今月その席を抜いたという事だった。

その発症時期からは会ってはいない。

得意先の展示会で年に一度は必ず会い、その流れのままに酒を一緒するようなことがあったのは過去の事となった。

聞けば、自宅にて療養を余儀なくされているのだという。

そして、彼の良き相談相手だった得意先のT氏によれば、

その事に関しては黙っていてあげる事がベストの選択なのだと説かれる。

 

もう一人は高校時代の同級生だ。

SNSで彼が長年勤めていた教師の職を離れて店をしている事を知り、去年その店に訪れた。40年の月日は一目ではそれとわからないままに、コーヒーを飲み、近況などをほんの少しだけ話した。

詳しくはブログを読んだ。

肺癌のステージが四段階目に達しているのだという。

抗がん剤治療は拒否し、その痛みから逃れるための治療を選択したのだという。

彼は40年の月日の間に俺の知らないところで多種多様な考えを自分なりにまとめていたようだ。少し感動をした。

 

こんな時にはなんと言葉の力は無力でしかないのだろう。

「大丈夫だ」「その勇気には感動をする」「ご家族に感謝を…」などと発そうが、

それは彼ら自身がその薄っぺらさに、笑いだしてしまうだけとなりそうだ。

そして、それがいつの日か自分のところに来たことを想像し、

ワナワナとしているのがこの俺の行き着くところだったりもする。

 

全うをして迎えるそれもその怖さは本人にしか理解らないものなのだ。

そこでの言葉は怯えている自分自身が映し出されてしまうだけのモノでしかない。

そこにある痛みを理解らない事を罪だとは言いたくはない。

だけど、そこでそれを考えている俺の事を理解ってくれと言っても栓がない。

 

母が亡くなったのは十年前の事、父は今年の三月に逝った。

二人とも認知症を患い、その事実を受け止めらないままに逝った。

そのための神様のセッティングがこの病なのかも、そんな事を考えている。